ただ一度の礼拝のために
(クリスマス説教集)


説教日:2023年12月24日
聖書箇所:マタイの福音書2章1節ー12節


 本主日は2023年の降誕節の礼拝をしています。今日お話しすることは、今から27年前の降誕節の礼拝においてお話ししたことを、新改訳2017年版に沿って、また、一個所修正し、かなりの補足をしながら、お話ししたいと思います。
 マタイの福音書2章1節ー12節には、イエス・キリストがユダヤのベツレヘムにお生まれになったことを受けて、「東の方から博士たち」がイエス・キリストを礼拝するためにやって来たことが記されています。この記事にはいくつかのことが示されていますが、そのうちの一つのことをお話しします。
 2節に記されているように、東の方からやって来た博士たちは、

 私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました

と言っています。
 この博士たちが見たという「」がどのようなものであったかについては、色々な説があります。
 よく耳にするのは、土星と木星が地球から見たときに重なって見えるようになった時に見られる、特別な光であったというものです。毎日新聞2020年12月18日朝刊「余禄」には、

この星が何だったかは諸説あるが、天文学者のケプラーは木星と土星の会合だと推定した。紀元前7年のうお座[注]2惑星の接近が、それだという。うお座はユダヤ教では神聖な星座で、木星と土星は半年[注]に3度接近を繰り返した。占星術師でもあったケプラーは、それを特別な啓示とみたのだ(斉藤国治(さいとう・くにじ)著「星の古記録」)。ただこの時の接近間隔を計算すると1・0度程度で驚くような大接近でもない。
という記事があります。

と記されています。バビロニアの天文学では、土星はパレスチナと結び付けられており、しかも、木星は「王」と結び付けられていたと言われています。

[注]この「うお座」は、接近した木星と土星のはるか先の背後にあって、地球から見ると重なって見えるということと思われます。この場合の「半年」は、他の資料では、6月ー12月であったと言われています。
 ここでは、この時の木星と土星の接近は「驚くような大接近でもない」と言われています。別の資料では、月の一つ半ほどの距離があったとのことです。それで、これが特別な光を放っていたわけではないと考えられます。このことは、次に引用する9節に記されている「あの星」がこのことであれば、これを、博士たちはどのようにして見たのだろうか ―― 観測機器を持ってきていたのだろうか、という疑問を生み出します。

 この星については、この他に、超新星爆発や隕石や彗星などによる光などが考えられています。
 しかし、9節には、

すると見よ。かつて昇るのを[文字通りには「東の方で」]見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。

と記されていて、この「」が、博士たちをただベツレヘムに導いただけではなく、「幼子のいるところまで」導いたと言われています。
 この時のイエス・キリストについて見てみましょう。
 11節に、

それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。

と記されているように、イエス・キリストは「」(オイキア)におられました。それで、「宿屋」(カタリュマ・ルカの福音書2章7節)の家畜小屋におられたのではありません。ですから、家畜小屋の「飼い葉桶」に眠っておられるイエス・キリストのもとに三人の博士たちが来た、という一般的なイメージには誤りがあります。博士たちが三人ではなかったことについては、後ほどお話しします。
 また、16節には、

ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。

と記されています。このことから、博士たちが来たのは、イエス・キリストの誕生から2年以内で、ヘロデは「二歳以下の男の子」を殺せば、博士たちが言う「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を確実に抹殺できると考えていたはずですから、遅くても、1年ほどたっていたと考えられます。[注]

[注]「母マリアとともにいる幼子」と言われていることから、生まれてあまりたっていない幼子とも考えられますが、13節ー15節に記されているエジプトへの逃避行に、その当時の状況で、耐えられるだけの幼子に育っていたとも考えられます。
 このエジプトへの逃避行に関連することですが、博士たちが献げた「黄金、乳香、没薬」は、後ほどお話しする、博士たちの信仰と献身の証しであるとともに、この一家がエジプトに行って、しばらくそこにとどまる上での必要を満たした、主の摂理の御業の導きによる備えでもあったと考えられます。


 そうすると、その頃に、ベツレヘムで生まれた一歳前後の子どもは何人もいたことでしょう。もしこの「」の導きがなかったなら、博士たちは幼子のいる家を訪ねて回らなければならなかったでしょうし、人々に聞いても、どの子どもが「その子」である分からなかったでしょう。その点では、ルカの福音書2章12節に記されているように、羊飼いたちが御使いから、

あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。

と告げられたこととは違っています。
 ですから、9節で、

かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。

と言われていることは、神さまの特別な導きを意味しており、この「」は、超自然的な光のことであると考えられます。そうしますと、ここで、「かつて昇るのを見たあの星」と言われている博士たちが自分たちの国で見た星も、超自然的な光によるものであると考えられます。
 そして、これからお話しすることからも推察されるように、博士たちは天で起こっている現象とともに、それが何を意味しているかを理解し、受け止めることにおいても、主の啓示に導かれていたと考えられます。実際、博士たちは、12節に、

彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。

と記されているように、啓示に導かれています。「夢で」ということは、この後お話ししますが、この博士たちの夢を解き明かす働きと関係があります。主は彼らの夢を解き明かす働きを用いて、ご自身のみこころを啓示してくださったということです。


 この博士たちとは、どのような人たちだったのでしょうか。
 ことばの上から言いますと、「博士」ということば(マゴス)は、私の手元にあるギリシア語のレキシコン(BAGD)では、

(ペルシアの・・・それからまたバビロニアの)賢者また祭司で、占星術、夢の解き明かしや呪術の専門家

のことであるとなっています。
 このことばは、元来、今日のイランの一地方に当たるメディアの部族の名でしたが、その部族が星の観測から導き出した技術との結びつきで、後に、この名が、同じく星の研究をする、メディア・ペルシアの祭司階級一般を指すのに用いられるようになったようです。また、初期の教会の伝承の中にも、この博士たちがメディア・ペルシアの賢者たちであるとするものが多くあります。
 しかし、その一方で、この博士たちが星の研究に携わっていたということから、星の研究の中心地であり、しかも、ダニエルたちから強い印象と影響を受けたと考えられる、バビロニアの学者たちであるとする見方も、古く、オリゲネス(185年頃ー254年頃の時代からあります。
 おそらく、このどちらかのことでしょうが、決定的なことは言えません。いずれにしても、この博士たちは星の研究をしている占星術、呪術などの専門家であり、祭司であり、王の宮廷で助言者として仕えていた(参照・ダニエル書2章2節「そこで王は命令を出し、呪法師、呪文師、呪術者、カルデア人を呼んで、王にその夢の意味を告げるように命じた。」、10節 ―― この時、ダニエルは、ネブカドネツァル王が見た夢とその解き明かしを王に告げています)と考えられます。
 この博士たちがバビロニアあるいはペルシアからユダヤまでの旅をするには、その準備だけでも大変なことです。具体的に考えられることとしては、博士たちはこの旅をするためには、その務めをしばらくの間休むための許可を得なくてはならなかったし、長い旅をするための物資を揃えなければなりません。また、旅の途中で天災に巻き込まれることや、盗賊たちから襲われることを予想し、そのために備える人員も必要だったでしょう。それで、この旅は、相当数の人々からなる一隊を組織しての旅であったと考えられます。先に触れた、いわゆる「三人の博士」は、博士たちが献げた「黄金、乳香、没薬」に合わて考えられたものです。
 このようにしてはるばるユダヤまで旅をして来た博士たちを動かしていたものは、いったい何だったのでしょうか。
 それについては、2節に記されているように、博士たち自身が、

ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。

と述べています。
 博士たちは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方 」を「礼拝するために」来たというのです。
 この博士たちは、同じ道を通って旅をしていた商人たちのように、商売をしに来たのではありません。むしろ、経済的には、この旅によって失うものは多くても、得るものはありません。
 また、自分たちの「お国のために」一肌脱いでやって来たのでもありません。この時ユダヤは、ますますその力を増しつつあるローマ帝国の支配下にあり、しかも、「ヘロデ王」というエドム人の王によって治められている弱小国でした。そのユダヤに「王として」生まれた人物がいても、政治的、軍事的にはバビロニアやペルシアに影響がある訳ではありません。ですから、この旅は、国家の外交上の必要から命じられたものではなく、純粋に博士たち自身の意志で計画し実行したものです。
 ある人々は、アレキサンダー大王の誕生の時にも天にしるしが現われたという伝説を引いて、博士たちは、後に世界史的な影響を及ぼすことになる王の出現を信じたから、このような旅をしてやって来た、と考えています。これと類似の伝説はその他にもいくつもあったことが知られています。
 その伝説の真偽や、それとの関連はともかくとして、少なくとも、それ程の意味のある人物の誕生であると信じることがなかったなら、博士たちは、このような旅をして来ることはなかったはずです。
 しかし、そうではあっても、やはり、博士たちが、この旅によって何らかの利益を得るようになるということは考えられません。いくら後になって偉大な人物になるといっても、この時は、二歳足らずの幼子です。その幼子が、自分たちのことを覚えていてくれると期待をすることはできません。また、この幼子が成人して王になる時まで、博士たち自身が生き永らえている可能性は、ほとんどありません。
 さらに驚くべきことには、博士たちは、たった一度だけ、この幼子にお会いしただけです。たった一度だけお会いして礼拝するためにやって来たのです。しかも相手は、当初、博士たちが当然のこととして目指したユダヤの中心であるエルサレムにある王の宮廷ではなく、ミカ書5章2節で、

 ベツレヘム・エフラテよ、
 あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。

と言われている、ベツレヘムの庶民(おそらく、ナザレでのように大工)の家の子どもでした。
 いくら「その方の星を見た」、その「」に導かれたといっても、普通であれば、自分たちの思っていたこと、この世界の常識とはあまりにもかけ離れているということで、「宝の箱」に入れて持参した「黄金、乳香、没薬」などの高価な「贈り物」も出すことなく、がっかりしながら帰って行く姿を想像する方が、はるかに自然です。しかし、博士たちは、「ひれ伏して礼拝し」、「黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」のです。当然、このことに心から納得し、満足して帰っていったはずです。
 これは、考えれば考えるほど、「不可解なこと」と言う他はありません。しかし、まさにこの「不可解」と見えることの中にこそ、マタイがこの福音書に、この博士たちの来訪を記したことの意味がある、と言わなければなりません。
 マタイが私たちにあかししていることは、この博士たちは、ただただ、イエス・キリストを「礼拝しに」来ただけであったということです。遠いところをはるばると、大変な時間と費用をかけて、危険を覚悟して、ローマ帝国の支配下にあり、他国人が王として治めている弱小国ユダヤにやって来て、その町の庶民の家の子どもに会って、しかも、たった一度だけ会ってすぐに別れてしまうのに、「黄金、乳香、没薬」という高価な「贈り物」を献げて礼拝したということです。
 これまで、「これは、本当に不可解なことだ。」と言ってきました。しかし、マタイに言わせれば、実は、これは、決して不可解なことではないのです。これまでお話ししてきたようなことから、この博士たちがしていることは「不可解なこと」であると思うとしたら、それは、そのように思う私たちが、神である主を礼拝することがどのようなことであるか、礼拝の本質を、よくは分かってはいないからに他なりません。

 ちなみに、「エホバの証人」はその『新世界訳』で、新改訳が「礼拝する」と訳していることば(プロスキュネオー)を、「敬意をささげる」と訳しています。「エホバの証人」は「イエス・キリストは神ではない」と主張しているので、神さまのみにささげられる礼拝が、イエス・キリストにささげられるはずがないということになります。つまり、「エホバの証人」は、この博士たちは表敬訪問に来ただけであると言っているのです。
 このことば(プロスキュネオー)自体は、どちらの意味にも訳すことができますから、このことばだけでは、どちらの訳が正しいかを判断することはできません。しかし、私たちが、これを、ここで博士たちがただ単に表敬訪問に来ただけではなく、イエス・キリストを「礼拝しに」来たと考えるのは、この博士たちのことを記している記事自体が、そのことを示していると考えるからです。
 2章11節では、博士たちは、新改訳に従いますと、幼子の前に「ひれ伏して礼拝した」と言われています。あるいは、新世界訳に従いますと、「ひれ伏して敬意をささげた」と言われています。いずれにしても、博士たちは、幼子の前にひれ伏しています。このように、ひれ伏したのは、東方の国の高貴な階級に当たる博士たちです。それを受けたのは、弱小国ユダヤの町の庶民の家の幼子です。
 そこには、少なくとも、一般的な意味での表敬訪問が成り立つ要素はありません。すでにお話ししたように、商業上のメリットも、外交上のメリットもまったくありません。世間的な意味での「見返り」はまったくないばかりか、多大な時間と労力と費用をつぎ込まなくてはなりませんでしたし、そこに来るまでの旅の途中では、危険を覚悟しなければなりませんでした。
 これらのことにおいて、博士たちに勘違い、思い違いがあったわけではありません。博士たちはこれらすべてを計算に入れ、覚悟した上で、遠路はるばるとやって来ました。その目的は、ただ一つ「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を(新改訳では)「ひれ伏して礼拝する」こと、(新世界訳では)「ひれ伏して敬意をささげ」ることだけで、それ以外のことは何もありません。
 しかもそれだけの時間と労力と費用をつぎ込んで、危険を承知の上で遠路はるばるやって来て、結果的にできたことと言えば、その幼子に、ただ一度だけ、「黄金、乳香、没薬」などの高価な「贈り物」を献げて「ひれ伏」すことだけでした。けれども、博士たちはそのことに心から納得し、満足しました。
 博士たちが幼子の前でしたことには、このような、この世的な打算を越えた、犠牲と献身があります。その思いのすべては、何の見返りも計算もなく、ただ、この方の前に「ひれ伏」すことだけに向けられていました。博士たちのこのような犠牲と献身を「礼拝する」ことであると言わなかったとしたら、人がなすことで、他に何が「礼拝する」ことであると言えるでしょうか。
 先ほど、この博士たちのしていることが、私たちの目に不可解なことと見えるとしたら、それは、神である主を礼拝することがどのようなことであるかを、よくは分かっていないからだと言いましたが、それは、このようなことだったのです。
 この博士たちのしていることが、決して不可解なことではないと了解することができるようになるのは、博士たちが、まことの神である方を真実に礼拝するためにやって来たということを受け止めるときだけです。

 この博士たちの犠牲と献身は、神である主に対する礼拝がどのようなものであるかを、この上なく鮮明にあかししています。それは、まことの神さまへの礼拝は、その、ただ一度の礼拝が、博士たちがかけた時間と費用と労力、そのために冒した危険のすべてに価して余りあるものであるということです。
 これからお話しすることは、私自身のこととしてお話しすることでもありますが、私たちは、今日も、この天地の造り主である神さまの御前にひれ伏しています。私たちの目には、これは、週ごとに繰り返されていることの一つとしか写らないかも知れません。しかし、私たちは、今ここで私たちがささげている、この「一回の礼拝」が、この博士たちのあの犠牲と献身のすべてに価して余りあるものであるということを心に刻み続けなくてはなりません。
 「その方の星が昇るのを」というおぼろげな啓示の中でユダヤ人に伝わるメシアの誕生を察知し、しかも、その目に見える姿は、弱小ユダヤの町の庶民の家の幼子でしかなかった方に、ただ一度の礼拝をささげるためだけにあのような犠牲を払ったことに後悔することなく、心から納得し、満足した博士たちの献身は、豊かな啓示と、贖いの御業の完成によってもたらされたあふれる恵みの中で、残念なことですが、しばしばささげられてしまう、習慣化した礼拝に対して、どのようなことを語りかけ、どのような光を与えているのでしょうか。
 私たちは、神さまを礼拝するために、この博士たちのように、はるばる旅をする必要はありません。それは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、贖いの御業が完成したからです。それによって、栄光のキリストが、ご自身の御霊によって私たちの間にご臨在してくださるようになりました。それで、私たちは、どこにあっても神さまのご臨在の御前に近づくことができるようになりました。ヨハネの福音書4章21節ー24節に記されているように、イエス・キリストが、礼拝する場所について質問したサマリヤ人の女性に、

わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。 ・・・・・ しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。

とお答えになったとおりです。
 御子イエス・キリストの贖いの恵みに包まれて、御霊のお働きによって、いつでも、神である主のご臨在の御前に出でて礼拝をささげることができることは、この博士たちに言わせれば、私たちが「うらやましいほどの」恵みを受けていることに他なりません。しかし、そのような恵みの中にあるために、かえって礼拝が習慣化したものになってしまうことがあることを、常に、心して戒めたいと思います。

 そうではあっても、このマタイの福音書の記事が示していることの中心は、この博士たちの犠牲と献身による礼拝のことではありません。このマタイの福音書の記事から、博士たちがすばらしい礼拝をしたということを知って感動したとしても、それは、この記事があかししていることに付随することでしかありません。
 この記事の中心は、この博士たちの犠牲と献身にある礼拝を通してあかしされている、永遠の神の御子イエス・キリストご自身です。
 博士たちの思いを、今日のことばで代弁することが許されるとしたら、やはり、博士たちがすべてを傾けて礼拝した方があがめられ、あかしされることだけが、その心からの願いであるはずです。
 豊かな啓示を受けている私たちに当てはめて言うと、私たち罪人の罪を贖うために貧しくなって来てくださり、十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを私たちに代わってすべて受けてくださって死んでくださった、永遠の神の御子イエス・キリストは、全被造物の礼拝を受けるにふさわしい方であり、私たちのすべてを傾けて礼拝すべき方であるというあかしです。
 確かに、「まことの礼拝者」にとっては、まことの神さまを礼拝し、あがめること以上の目的はありません。博士たちは、ただ、イエス・キリストを「礼拝しに」来ただけでした。彼らにとっては、その礼拝そのものが目的でした。
 しかし、それは、罪を宿している私たちの生来の性質にとって、自然なことではありません。
 人類の堕落後の、罪の力に縛られている状態の人が、自分たちの考える「神」を礼拝するのは、その「神」から「お恵み」をいただくためであって、「神」を礼拝し、「神」をあがめること自体が目的ではありません。そこでは、「神」も「神」を礼拝することも手段化されています。ですから、罪の力に縛られている人は、手段化できる「神」(偶像)を拝みますが、決して手段化することができない、造り主である神さまを礼拝することはありません。
 造り主である神さまをあがめること自体を目的とする礼拝をささげることができるためには、私たちが、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、罪の力から解放されていなければなりません。その意味で、そのような礼拝は、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる、御霊が私たちのうちに生み出してくださるものです。

 私たちの内にはなおも罪の本性が残っています。そのために、しばしば、自分が満たされること、満足することを「恵まれること」の本質、あるいは、中心であると感じる、自分中心の感じ方に縛られ、動かされてしまいます。そのために、神さまを礼拝すると言いながら、自分が満たされることを求めてしまいます。
 このように言いますと、本当の意味で神さまを礼拝した者は、何ものにも代えることができない、本当の満足を得るはずではないかと反論されるかもしれません。
 確かに、そのとおりです。しかし、それが本当の満足であれば、それは、礼拝をとおして自分を満足させようとしたことによって得られるものではありません。そのことは、この博士たちのことを考えるとよく分かります。博士たちは、イエス・キリストにお会いし、イエス・キリストを礼拝することだけを目的として、大変な時間と費用をかけて、はるばる旅をしてきました。そして、その目的を果たした後、本当に満足して帰りました。けれども、博士たちは、自分たちが満足することを計算したり見越したりして、イエス・キリストの御許に来たのではありません。
 この博士たちの姿勢は、神のかたちとして造られている人の本質に触れることをあかししています。愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人は、本来、神さまの愛を受け止め、神さまを愛して、真実に神さまに礼拝をささげることを存在の目的としているということです。それで、礼拝を中心とした神さまとの愛にある交わりに生きることが人のいのちの本質です。今なお罪を内に宿している私たちにとってさえも、愛する人とともにいること自体が目的であり、喜びであり、幸いです。それは、まさに、神さまとの関係においてこそ、そうであるからです。詩篇73篇25節ー26節には、

  あなたのほかに
  天では 私にだれがいるでしょう。
  地では 私はだれをも望みません。
  この身も心も尽き果てるでしょう。
  しかし 神は私の心の岩
  とこしえに私が受ける割り当ての地。

と記されており、28節には、

  私にとって
  神のみそばにいることが 幸せです。

と記されています。それで、私たちは、神さまの御前にひれ伏し、神さまを愛して、主としてあがめること自体を目的として礼拝するときに、真の充足を得ることができるのです。
 しかし、私たちは、自分の力で、そのような神のかたちとして造られている人の本来の姿と、本当の充足を回復することはできません。それは、御子イエス・キリストが、ご自身の十字架の死と、死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いにあずからせてくださって、実現してくださることです。
 実際に、私たちのうちに働いて、私たちを造り変えてくださるのは、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊です。御霊は、私たちを「まことの礼拝者」に造り変えてくださいます。そして、神である主を愛して、あがめることを目的として、礼拝することができること自体が「恵まれていること」の本質であると感じるように価値の基準を変えてくださいます。
 私たちは、実際に、一つ一つの礼拝において、御子イエス・キリストの御名によって、神さまを愛して、主としてあがめることを目的として礼拝することをとおして、この御霊のお働きにあずかっていきます。そして、自分が満たされ、満足することにではなく、神である主を、本当に神さまにふさわしく礼拝することに心を配る者へと造り変えられていきます。それによって、真実に神さまを愛して、主としてあがめることを目的として礼拝する時に、自分が本当に満たされ、充足していると感じることができるようになっていきます。


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